アートホリックな人のいまをお届けするこのコーナー。今回は、ギャラリーキャプションのスタッフで、よりみち・プロジェクト実行委員会の山口美智留さんにお話をうかがいました。
今回の、よりみちプロジェクト「いつものドアをあける」(2009年5月9日~24日、岐阜駅周辺から玉宮町界隈に点在する雑貨店パンド、八幡神社、カフェココン、岐阜市文化センター街並みギャラリー“陽だまり工房☆”、ギャラリーキャプション)は、これまでのまち系のアートイベントとは違って、アートの立ち位置を低くして日常に寄り添っていく感じの展覧会でしたね。
今回はリーフレット、リリースなどにいっさいアートや美術という言葉を使いませんでした。アートプロジェクトと謳ってしまえばわかりやすいですが、あえてアートという言葉を使わず、どこまでアートを考えられるかと。ギャラリーキャプションがこれまで積み重ねてきた展覧会を通じて生まれた企画として、特に河田政樹さんのアートに対するスタンスがプロジェクトの重要な位置を占めていました。河田さんの「かわだ新書」が本を媒体にアートを考えるというプロジェクトだったように、美術の枠組みから外れたところでアートを考えることはできないか。「アートプロジェクトです」とアートを前提とするのではなくて、雑貨屋さんの商品と同等の物としてアートを並列させられないか。そして、見る人がどうそれを捉えるかに興味がありました。見る人が、自分が何を見ているか、どう物事を受け取っているかを考える試みができるといいなと。
このプロジェクトが生まれたきっかけは?
当初から目指すところがはっきりしていたわけではなかったのですが、いつかは外で展覧会をしてみたいという思いはありました。地方のギャラリーでは見てくれる人数に限りがあるので、見に来てくれないならこちらから出て行きたいと。
雑貨店のパンドさんとカフェのココンさんとはお互い客として行き来していて、それぞれのお客さんにも案内をしていました。であれば、お互いの場所をつないで何かできるのではと考えていたところ、パンドさん店内のギャラリースペースで別のショップが出張販売しているのを知りました。ギャラリー同士で出張店舗というのはありませんが、雑貨屋間ではよくあるそうで、パンドさんがキャプションに出張店舗したら面白いんじゃないかという思いつきから、この企画が始まりました。
お互いの物が入れ替わり、物が動くことでお客さんも動く。雑貨を見に来たお客さんが、作品と思いがけず出会う。キャプションとパンドさんが歩ける距離なので、その周辺のココンさんや八幡神社、文化センターをつないで何かできるのではと概要が決まっていきました。
アートプロジェクトとせずにアートを考える試みにしようとしたのはなぜですか?
キャプションとパンドさんが入れ替わるというのは、どういうことなのかを考えました。パンドさんは行くたびに商品の陳列が替わっていて、商品の入れ替えがなくても2週間くらいで家具も含めて、部屋の模様替えのように商品の配置替えを行っています。同じ物でも置かれた場所や、隣に並ぶ物で見え方が変わるということを常に考えていて、配置が替わるだけで空間が違って見えます。物をどう見せるかを考えているという点では、ギャラリーや作家が行っていると変わりはなく、ギャラリーというニュートラルな場所ならば、日頃からパンドさんが行っていることが際立って見えるのではと考えました。
河田さんからも自作をパンドさんに展示してもらったらどうかという声があり、これまでキャプションで発表した作品のなかから、パンドさんにセレクトから展示までしてもらうことに。商品を仕入れてお店に陳列するのと同じ感覚で作品を展示したらどうなるか、これまで発表した時とは見え方が変わるはずだと。河田さんからの提案で、物をどう提示するか、そしてそれをどう受け取っていくかというプロジェクトの主軸ができました。
雑貨屋がギャラリーで展示することやキャプションと入れ替わることはアートではないかもしれないけど、そういう試みをとおしてアートについて考えていくことになるのでは。そこから、作品と商品の境目がなく、どれが作品でどれが商品なのかわからない状況をつくり出していきました。
場所によって物の見え方が変わるのと同時に、置かれる物により場所の見え方も変わった気がしました。パンドさんの商品によって、キャプションの空間がまったり見えたり。
どんな空間にも言えることですが、空間にはそれぞれ特徴があり、それに合わせて、ここはこんな作品を置くときれいに見えるとか、こちらの意識や空間への接し方が固まっていたことを、パンドさんの展示作業を見ていて感じました。展示物の高さや間隔など作品を展示する場合の決まり事についてパンドさんはご存じないので、逆に私たちがやってはいけないと思っているところにも面白さがあるなあと。いつも自由に展示をしているつもりでしたが、実はそれほどでもなかったと。
今回の展示に際して、パンドさんもこれまで店舗で無意識にやっていたことと向き合わなければならなかったようです。場所や作品と向き合うことは自分と向き合うことなので、自店の商品や河田さんの作品と一から向き合った時に、これまで無意識にやっていたことを改めて見直す機会になったと話されていました。
商店やカフェを使ったアートイベントはほかでもありますが、神社は意外性がありました。
岐阜は車社会なので街中のことを知らない方も多く、八幡神社に馴染みのない人も少なくないので、そういう人たちにも街の魅力的を伝えられたらと。
神社はそこに何か作品を置いたりしなくても、そのものがインスタレーションだと言えるのではないかと思います。鳥居をくぐっただけで、空気が違って感じられたり気持ちが切り変わったりして、体感する要素がたくさんあります。神社そのものを体感してもらえることができないかと、作家の後藤譲さんには敷地内の環境を整備してもらい、持ってきた作品を置くということはしませんでした。作品を置くと、それだけを見て帰ってしまいがち。神社に足を運んでその場所を体感してもらうきっかけを、後藤さんに作っていただきました。
だから、何もなかったと思った人もいるし、神社そのものの魅力を感じた人も。「作品がない」という苦情が来ると覚悟していましたが、想像以上に神社という場所を受け入れてくれた人が多かったようです。作品があると一瞥して帰ってしまうこともできますが、その分だけ長く滞在して「あれが作品かな」「これが作品かな」と思われて、それを持ち帰ってくださったのかなと。結局、そこで気になったものが「作品」と受け止められていたようです。
「いつものドアをあける」というタイトルの意味は?
あえて曖昧なタイトルにしたのは、それに対してイメージするものが人それぞれだろうから。お客さんに対しては、キャプションやパンドさん、ココンさんのドアを開けた時にいつもと違う風景が広がっているということや、日常のドアを開けてみた時に出会える世界があるということなど。主催者側としては外に出て、雑貨屋やギャラリーという枠組みを超えたところで自分たちの普段の取り組みを考え直す機会となれば、というところから。考えていることは外側に対象化しないとなかなか見えてきません。内に向かって考えているよりも、外に映すことでわかるようになると思います。
このプロジェクトをとおして伝えたかったことは?
同じ物を見たり同じ体験をしていても、人によって捉え方がまったく違います。特に神社では、あることとないこととは、いったいどういうことなんだろうと考えてもらえるといいなと。「なんであれがアートなのか」と言う人もいましたが、後藤さんが環境を整備したりしたのはアートではなく、神社に立った人があの場所をどう受けとめたか、そこにアートがあるのではないかと思います。キャプションでは、パンドさんが出張店舗していることを可能な限り伝えましたが、「これが作品?」と思った人も多いはず。物そのものより、ギャラリーとかアートという枠組みの中で物を捉えていることについて考えてもらえたらと思います。