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2011年12月15日木曜日

アーティスト・鈴木雅明


アートホリックな人のいまをお届けするこのコーナー。今回はアートラボあいち1Fに作品を展示中の鈴木雅明さんにお話を伺いました。
 
鈴木雅明 《無題》 キャンバス・油彩、2011年
アートとの出会いについて教えてください。

子どもの頃から絵を描くことが好きでした。しかしそれはアートとして絵を描くというよりもマンガを読んだりゲームをしたりするのと同じような感覚のものだったと思います。
アートを意識するようになったのはもっとずっと後で大学に入ってからだと思います。中村英樹先生の講義で白髪一雄が綱にぶら下がって汗だくで足で絵を描いている映像を見たときの強烈な印象が本当の意味でのアートとの出会いだったと思います。

夜の街角の情景を描いた作品で注目されましたが夜の街を描くようになったのはなぜですか?

僕は大学で洋画コースに在籍していました。2年生までは課題があってそれを一生懸命こなすという感じでしたが
3年生になってからは自由課題という何をやっても良いという課題に変わりました。
そこで何を描こうかいろいろ考えたのですが結局何も描くものが見つからず、彫刻コースで粘土や樹脂を触らせてもらったり、商店街のアートイベントを手伝ったりしていました。
そして作品らしい作品を作れないまま卒業制作の時期が来て、それでも自分は絵が描きたくて絵を描くことにしました。しかしやはり何を描いたらいいのかがさっぱりわかりません。そこでいろいろなものを写真に撮ってそれを見ながら描けば描けるのではと思い身近な風景を写真に撮ってそれを見ながら描くようになりました。制作を進めていく中で夜に撮影した写真を見ながら描いたものがありました。昼間に撮影する写真とは違って夜写真を撮ろうとするとどうしてもブレたりボケたりしてしまってうまく撮ることができません。しかし輪郭や形が曖昧になったイメージは絵の中で自由に輪郭や形を決めることができ、僕にとってはとても描きやすいイメージでした。
夜の街の風景を描いているのでロマンチックとか寂しい、街灯の光が希望の光に見えるといった感想を頂くことが多かったのですが僕自身はそういう感情を持って制作したことは一度もありません。
むしろイメージに対してはもっとクールというか、感情移入するのではなく夜景はあくまでも絵を描くためのイメージのひとつと考えています。

2005年に第4回夢広場はるひ絵画ビエンナーレで夢広場はるひ大賞、若手平面作家の登竜門といわれるシェル美術賞2005でグランプリを受賞されたことは鈴木さんの制作活動にどのような影響がありましたか?

2005年は大学院に行くための費用を貯めるためにアルバイトをしながら絵を描いていました。大学を出てからの制作は締め切りも講評会もないので制作のペースが乱れることがあって一つの区切りとしてコンクールに出品するようにしていました。受賞が直接何かにつながったということはありませんでしたが受賞後しばらくは新聞、雑誌などで広報していただく機会が増えたと思います。
大学院の学費を賞金でまかなえたことが一番嬉しかったです。

最近、作風をがらりと変えられたのはなぜですか?

夜景の作品を描きはじめて5年くらい経つのですが、なかなか作品を展開させることができずにいました。夜景じゃなく昼間や朝の日差しを描くということも考えましたがイメージを変えるだけでは作品が前進したことにはならないんじゃないかと思いました。そしてイメージをあらわすだけならば写真やCGなど他のメディアでも良いわけで絵画はそれだけで進めていけるものではないのかなという気がしています。
見る人に作風ががらりと変わった印象を与えるのは今の作品が夜景の仕事とかなり見た印象が違うからだと思います。しかし僕の中では今までの作品とも繋がっていて必然性を持って制作しています。まだ試行錯誤している段階でこれからも作品は変わっていくと思います。

木々の枝や、木の葉を揺らす風、木漏れ日がのびやかなストロークで表現されていますが鈴木さんが制作する上でいま大切にしたいことは何ですか?

僕が今まで制作してきた夜景の作品では写真をベースにしていることもあり、最初に描くイメージが大方決まっていました。しかし今制作している作品では描くイメージを先に持つのではなく、描くことの積み重ねの中からイメージを探ろうとしています。ストロークが枝や木に見えてきて、それで木や枝を描いたものが多くなっていますが本当は描くものは何だって良かったのです。描くということを大切にして制作をしていきたいと思っています。

鈴木さんが運営メンバーとして関わるアーティストランの展示スペース、GALLERY GOHONがオープンして1年経ちましたが、スペースの運営は鈴木さんの制作にどんな影響がありましたか?

GALLERY GOHON201011月にオープンして1年経ちました。2年間限定のプロジェクトなのですでに半分の期間が過ぎました。1年の間にもたくさんの作家さんや美術に関係している方々が訪れて下さり今後も制作活動を続けていく上で大きな刺激をいただきました。それは僕だけではなくGOHONのメンバー全員に言えると思います。
作品制作にダイレクトに影響したというよりも考え方や制作に取り組む姿勢など作家として活動を続けていく上での影響の方が大きかったです。

アートラボあいち1Fスペースでの作品展示やGOHONでの個展、masayoshi suzukiギャラリーでのグループ展と発表の機会がここのところ重なりましたが来年はどのように展開していきたいですか?

今のところ展示の予定もあまりないので、発表を前提に制作するというよりは今回の一連の展示での作品の問題点や展開などをじっくり探りながら制作できればと思います。

東海のアートシーンについてどう思われますか?

今まで愛知に住みながら制作してきましたが愛知のアートシーンに触れる機会があまりなかったので正直よくわかりません。でもGOHONに来てくれる作家さんや学生さんなどと話しをしたり展示を見に行ったりする中で良い作品を着実に作り続けている作家さんがたくさんいるなぁという印象を持ちました。あとあいちトリエンナーレの影響もとても大きいと思います。アートラボあいちなど若い作家が発表できる機会も増えてきていて僕が大学に入った頃よりも活気があるように思います。


■鈴木雅明プロフィール

1981 愛知県生まれ
2004 名古屋造形芸術大学 洋画コース卒業
2006 第21回 ホルベインスカラシップ 奨学者
2008 愛知県立芸術大学大学院 美術研究科修了

主な個展
2006 ギャラリーセラー (愛知)
2006 はるひ美術館 (愛知)
2007 Bunkamura Gallery (東京)
2008 ギャラリーセラー (愛知)
2008 Bunkamura Gallery (東京)
2009 ギャラリーセラー (東京)
2010 松坂屋本店 美術画廊 (愛知)
2011 GALLERY GOHON(愛知)

主なグループ展
2004 シェル美術賞展2004 (代官山ヒルサイドフォーラム / 東京)
2005 第4回 夢広場はるひ絵画ビエンナーレ (はるひ美術館 / 愛知)
2005 シェル美術賞展2005 (代官山ヒルサイドフォーラム / 東京)
2005 fine ship (名古屋市民ギャラリー矢田 / 愛知)
2006 名古屋市美術館特別展  「名古屋」の美術 -これまでとこれから- (名古屋市美術館 / 愛知)
2007 第26回 損保ジャパン美術財団選抜奨励展(損保ジャパン東郷青児美術館 / 東京)
2009 第1回 青木繁記念大賞西日本美術展 (石橋美術館 / 福岡)
2009 あいちアートの森 広小路プロジェクト (SMBCパーク栄 / 愛知)
2010 MEETING 2010 (清須市はるひ美術館 / 愛知)
2010 GALLERY GOHON OPENING EXHIBITION (GALLERY GOHON / 愛知)
2011 AICHI GENE -some floating affairs- (豊田市美術館 展示室9 / 愛知)
2011 ART LINE 01 (masayoshi suzuki gallery / 愛知)

受賞
2005年 第4回 夢広場はるひ絵画ビエンナーレ 夢広場はるひ大賞
2005年 シェル美術賞2005 グランプリ
2007年 第26回 損保ジャパン美術財団選抜奨励展 秀作賞


■展覧会情報
ALA Project No.5 鈴木雅明
会期:開催中~12月25日(日)11:00~19:00 月・火曜日休館
会場:アートラボあいち1F
http://www.artlabaichi.com/


2011年9月16日金曜日

アーティスト・ジャンボスズキ

アートホリックな人のいまをお届けするこのコーナー。今回は、2人展が開催中でアートラボあいちにも作品を展示中のアーティスト、ジャンボスズキさんにお話をうかがいました。


アートとの出会いを教えてください
子供の頃から絵を描くのは好きでした。でもそれは落書きみたいなもので、高校の美術の授業で初めて油絵を描きました。初めて使った油絵具が「なんだ、これは!」というくらい衝撃的でした。

美大を受験しようと思ったのはなぜですか?
僕の高校は就職する人が多く、でも就職したくないなあと進学を検討するうちに美大に行きたいなあと。でも美大に行けるとは思っていませんでした。建築系の専門学校に進学する人はいましたが、美大に進んだのはおそらく僕が初めて。卒業後しばらくは本を見てデッサンを練習していましたが、周りと比べたことがなく、自分が置かれている状況がわかりませんでした。1浪して受けた美大の入試で、ほかの人がいるところで絵を描いてみて自分の実力を思い知り、そこから予備校へ行きました。

See Saw gallery+cafeで二人展をされている長谷川繁さんは大学の恩師ですよね?
2年生の時、授業で出会いました。本格的に教わったのは3年生の時ですが、長谷川さんの存在は、僕の展開に大きな影響力を及ぼしたと思います。授業に「1000本ドローイング」とうのがあったのですが、SeeSawに展示したドローイングはその時に描いた作品です。


作品に影響を受けていると思うところはありますか?
自分では長谷川さんと似てると思ったことはありませんが、今回も並べてみたら違和感がありませんでした。長谷川さんとは距離が近いので、あえて作品が影響されないように意識しています。でも、似てると言われることに嫌な気はしません。

どのように絵をつくっていくのですか?
時期によって微妙に違いますが、ドローイングをもとにしているのは一貫しています。紙などに描きなぐった中から出てきたモチーフから構築していきます。最近では、まず頭の中でドローイングをしてから、いけそうだったら手で描いてみて、そこからいきなりキャンバスに描いていきます。途中でかなり変わっていきますが、そこがかえっておもしろいです。
自分としては描く物の質感が重要で、その物本来の質感というより絵の中での質感が大事なので、納得いくまで描き続けます。たとえば、生肉にしてもパンにしても描く時に写真を見ることはありますが、忠実に再現しません。きっかけにするだけで、「肉はこうだ」という自分がイメージする質感を表現します。

山が生肉だったり、雲がパンだったりと、身近なモチーフがしばしば思いがけないイメージになって描かれていますね
具体的な物を描く時は一般的で誰もがわかる物を心がけますが、固有名詞がある物はそこからイメージが広がりにくいので避けています。誰でもわかる物を描きながらも、わかりやすい絵は描きたくないと思っています。生肉を山にしたのは、その形がおもしろいと思ったからです。

今回アートラボあいちに展示された作品の見どころについて教えてください
《連山》は、OJUNさんの企画で現代ハイツというギャラリーで発表したもの。これは拝戸さんが選ばれましたが、もう一枚の《モーニング・セット》は《連山》だけで大丈夫か心配で、念のために持ってきた作品です。《連山》とのバランスを考えて自分で選びました。見る人にはどう見ていただいてもいいですが、ただ「山だな」とそこで止まってしまうのではなくて、作品から自由にイメージを広げてほしいです。それを僕にフィードバックしてくれると、今後の展開をそこから考えることができるのでうれしいです。

スズキさんが絵を描き続けているのはなぜですか?
描き始めたばかりなので、まだまだ未知の領域があるんじゃないかと。本当はさらっと描いた作品が好きなのですが、これでもかと描いてしまい、なかなかさらっと終わらせられないのは、まだその域まで到達していないからだと思います。

See Sawでの後期展示が9/13から始まりましたね
100号の新作を展示するのでそれを見てほしいです。トヨタアートコレクションとなっている《冠婚葬祭》の延長上にある作品です。

東海のアートシーンについてどう思われますか?
名古屋で活動している同世代の友人達は自主運営のスペースを作ったり、後輩の学生はさまざまな人に呼びかけて、一つの大きな展示を企画したりしています。若い人達がアートシーンに対して、積極的に働きかけていると思います。


■ジャンボスズキ プロフィール
1980年 東京都に生まれる
2007年 名古屋造形大学美術学科卒業

【グループ展】
2005年「百花繚乱」BOICE PLANNING(神奈川)
2007年「アウトレンジ 2007」文房堂ギャラリー(東京)
2008年「DRAWING」TIME&STYLE MIDTOWN(東京)
   「VOCA展 2008」上野の森美術館(東京)
   「生まれつつある現在 2008 −5人の作家によるー」文房堂ギャラリー(東京)
   「ART man」豊田市美術館(愛知)
   「THE NEXT」Gallery Stump Kamakura(神奈川)
   「99人展」名古屋市民ギャラリー矢田(愛知)
2009年「名古屋造形同窓会40周年記念展」名古屋市民ギャラリー矢田(愛知)
   「echo」文房堂ギャラリー(東京)
   「アテンプト2/Attempt」カスヤの森現代美術館(神奈川)
2010年「ショコラ・デル・トロ・フチュウ」LOOP HOLE(東京)
   「node vol.1」東京造形大学内 学生運営 gallery node(東京)
   「群馬青年ビエンナーレ 2010」群馬県立近代美術館(群馬)
   「千代かИван」現代HEIGHTS(東京)
   「LOVE CALL」KICHIO GARAGE(神奈川)
   「TDW-ART ジャラパゴス展」(東京)
2011年「Art in an Office 印象派・近代日本画から現代絵画まで」豊田市美術館(愛知)
   「Art for Tomorrow」tokyo wonder site shibuya(東京)
   「ジャンボスズキ × 長谷川繁」gallery+cafe see saw(愛知)

【個展】
2011年「Mille Lacs Lake」LOOP HOLE(東京)
   「ALAプロジェクト1」ART LAB AICHI(愛知)

【その他】
2008年 横浜アート&ホームコレクション(神奈川)
2010年 アート天国「虎の巻」2010(東京)
2011年 ART TAIPEI 2011(台北)

■展覧会情報
ジャンボスズキ × 長谷川繁
会期/開催中~10月15日(土) 12:00-17:00、12:00-19:00(金・土) 日・月休
会場/See Saw gallery+cafe(名古屋市瑞穂区蜜柑山町2-29)
※9月17日(土)15:00~アーティストトーク、参加費500円(ワンドリンク付)、要申し込み
詳細は→http://www.cafe-see-saw.com


2011年6月15日水曜日

アーティスト・近藤サヨコ

アートホリックな人のいまをお届けするこのコーナー。今回は、来月に個展を控えたアーティストの近藤サヨコさんにお話を うかがいました。

アートとの出会いを教えてください

子供の頃からキャラクターやマンガのような絵をよく描いていました。絵を描くことは好きだったけれど、高校は普通科へ。高校の時は美術といえば絵か彫刻という認識しかなく、日本画を描く時に水彩でデッサンをするのが好きだったので、美術短大の日本画コースへ進学しました。

映像に興味を持ったきっかけはなんですか?

短大を卒業後、四大の総合造形コースへ編入。短大では映像部に所属し、そこで初めて映像も美術だと知りました。今ほど携帯やデジカメが発達していなかったので、自分で撮影、パソコンで編集して作品ができるのがとても新鮮でした。

自作の人形をセットで撮影されていますが、どんなこだわりからそのようにされているのですか?

最初は友達に出てもらったりして、人形は使っていませんでした。今のスタイルになったのは大学4年生くらいから。友達だと何度も撮り直すのも申し訳ないし、海のシーンを撮りたくても、海に行くのは大変。人形だったら疲れないし、セットをつくれば思い通りに撮影できるかと。
また、球体関節の人形に興味を持っていたというのもあります。大学に入った頃に四谷シモンの作品を知り、こんなにカッコいい世界があるんだと。その時は人形を自作しようとは思いませんでしたが、それと自分の作品を組み合わせたら自分の好きな世界観を表現できるのではと思っていました。

物語はどのように発想されるのですか?

ストーリーをつくり、それに合わせて人形やセットを製作し、撮影をして、映像ができてから音楽や効果音を付けています。自分で脚本を書くのは映像部に入った短大1年生の頃から。当時はエログロに憧れていたのでそういう要素もありましたが(笑)、薄暗くてじめっとした感じは変わりません。太宰治や横溝正史、江戸川乱歩、泉鏡花の小説の影があり耽美ではかない世界観も好きでした。
私は育った新興住宅街にはそういうものがなく、父母の実家も都会だったので、漠然と田舎の村や鳥居のある風景の薄暗さや怖さに憧れがあって。だから横溝正史が描く、閉塞感のある村や孤島の暗くて怖い感じに憧れがありました。
物語は、生活の中で美しいとか面白いとかちょっと心に引っ掛かったこと、たとえばミツバチの生態とか青いバラができないこととか、そういうものを普段からメモしています。映画のようにこのシーンを撮りたいと思う時もあります。そういったものをつなげて1つのストーリーにしていきます。私自身が一からオリジナルでつくるのではなく、キーワードをつなげている感じです。

作品をとおして表現したいことは?

「戦争反対」とか「アートで世界が変えられたら」とか、そういうことは思いつきません。私の作品が何かを変えられたり影響力を持つとは思えないからです。私にとっての作品は日記のようなものです。昔の作品を見ると、自分だけにその時考えていたことがわかるというか。日記を人に公開している感じでしょうか。

見る人にこう考えてもらえたらとかありますか?

たとえば月を見ると「きれい」と思いますが「きれいすぎて怖い」とも思います。作品ではその怖い方を増幅させて、ニ面性のマイナスの方を見せたいです。
私は自分が楽しむために制作しています。他の人に伝えるためにと思えることはすごいと思いますが、「戦争反対」とか言えないし、それを伝えるメッセージが私の作品にあるとは思えません。あくまでも私的なものの見方や、感じ方を見ていただければ、できたら共感していただければと思います。

来月の個展ついて教えてください

新作はどれも物を集める話です。私自身、物が捨てられないし、ひととおり集めたい方で、たとえばフェルトで何かつくりたいと思うと全色集めて、それだけで満足し何もつくらなかったり。自分の好きなものに囲まれていると安心します。人のアイデンティティは持ち物によっても決まってくると思います。捨てることは業が深い。でも集めるだけで安心してしまうのも業が深い。そこを増幅させて物語をつくりました。

東海のアートシーンについて

ここに行ったらいつも面白いことをやっているという場所がないように思います。個々の展覧会は面白くても、「名古屋の現代美術ならここ」というような、いつも満足できる展示をやっているところがないのが残念ですね。


■近藤サヨコ プロフィール

1979.08 名古屋で生まれる
2002.03 名古屋造形芸術大学 総合造形科 卒業
2007.01 個展 「花と蝶と」 (ギャラリーアートフェチ)
2007.08 個展 「待宵月」 (ギャラリーアートフェチ)
2008.11 個展 「彼方の黄昏」 (ギャラリーアートフェチ)
2011.05 グループ展 「Woodland Gallery 2011」(美濃加茂文化の森)

ホームページ http://www.kondosayoko.com/

■展覧会スケジュール
近藤サヨコ映像展「蒐集するにあたり」
日時/2011年7月16日(土)~8月7日(日)13:00~19:00
   ※会期中の金・土・日曜日・祝日のみ開廊
場所/CROSSING(名古屋市中区栄2-4-12 チサンマンション広小路2F 209)
   ※7月16日より開設

2011年3月14日月曜日

あいちトリエンナーレ2010アシスタント・キュレーター 吉田有里さん

アートホリックな人のいまをお届けするこのコーナー。
今回は、あいちトリエンナーレ2010アシスタント・キュレーターの吉田有里さんにお話をうかがいました。

■アートとの出会いについて教えてください

私が中学生だった1995年に、自宅から自転車で行ける距離に東京都現代美術館ができました。その時、美術館がリキテンシュタインの作品を何億円かで購入したことを知り、「学校にはクーラーがなくて暑くて勉強できないのに、そんな高い絵を買って」と怒りにかられて見に行ったんです。そうしたらジェフ・クーンズの掃除機の作品などおもしろい作品が展示されていて、それまでは絵や彫刻が美術だと思っていた私には衝撃でした。その後いろいろ調べていくうちにそれが現代美術というものだとわかり、それが勉強できる大学があることを知って、多摩美術大学の芸術学科に進みました。
大学では、アーティストや展覧会をつくっている人やその仕事に興味を持ち、ボランティアで現場に関わるように。2002年の「コマンドN」では、秋葉原の家電店に並んでいるテレビに映像作品を映す「秋葉原TV3」いう企画で、お店の方と交渉したり、チラシで宣伝したり、アーティストの制作の手伝いをしました。それがきっかけでキュレーターやコーディネーターなどアートに関わる人たちと出会い、彼らが関わるプロジェクトを手伝うようになりました。
その後は、2004年にBankART1929に手伝いに行くうちにアルバイトになり、卒業後もそこで仕事を続けました。

■在学中からまさに現場で学んでこられた吉田さんですが、大学にはアートマネジメントを学ばれたのですか?

多摩美術大学は現代美術を専門としている教授が多く、論文と展覧会・イベントの企画が芸術学科の卒業課題でした。私は建畠さんのクラスでしたが、BankARTでアルバイトを始めていたので、BankARTを会場にして、「国際展とは何か」というシンポジウムを企画しました。それは、05年の横浜トリエンナーレのディレクターが磯崎新さんから川俣正さんに交代するきっかけとなる場となりました。マネジメントというわけではありませんが、大学に実践の場は多くありました。

■Bankartではどんな仕事をされていたのですか?

Bankart自体が地域に開いて行くスペースで、まちなかでの展覧会が多く、私が担当したものにも街に出て行ってというものが多くありました。具体的には、横浜にある飲食店100店舗に作品を設置する「食と現代美術展」のプロジェクトや、空きビルを使った展覧会などです。

■「秋葉原TV」から一貫して地域系の展覧会に関わっているのですね

私は美術館の学芸員をしたことがないですが、最初から実践の場が街だったので、ごく自然に抵抗なくまちなかでの展示に関わっています。

■「あいちトリエンナーレ」にはなぜ関わることになったのですか?

BankARTを退社した時、恩師の建畠さんに声をかけていただきました。「あいちトリエンナーレ」のまちなか担当にと推してくださったのも、それまでの仕事を見ていてくださったからだと思います。

■長者町は問屋街で一般的な商店街とは異なりますが、やりにくかったことはありますか?

名古屋に来るまで街が得意だとは気づいていなくて、ごく自然にやっていました。まちなか担当として仕事をするようになり、あらためていろいろな視点で考えるようになったのですが、長者町はまちなかのアートプロジェクトへの重要な要素が重なっている奇跡的な街だと思います。まずスケールがちょうどいい。完全なシャッター街ではないし、問屋街なので集客しても店の直接的な利益にはならず、利害関係が生まれません。街の人たちは、トリエンナーレといっても最初は「何語?」という状態でしたが、前年にプレイベントをやったことで理解してもらえるようになりました。まちづくりにも熱心で、最初から応援してくれている人たちがいて、力を貸してくれたのも大きかったです。

まちなかのプロジェクトは生活している人にはたいへんなことやリスクが少なくありませんが、長者町は約2万人が働いているものの、約400人にしか住んでいません。夜はほとんど人がいないので、パーティーや夜中の作業をしても苦情がありません。ほとんどの店舗が土日休みなので土日にイベントもできます。シャッター街を使ったプロジェクトだと街自体に活気がないので何事もスピーディにいきませんが、長者町では社員の方が業務の一環として、まちへの貢献のために手伝っていただけたのでスピーディに準備が進められました。また土地と建物の所有者が同じ場合が多く、オーナーひとりの判断で場所を借りることができたりと、長者町にはまちなかのアートプロジェクトで問題になりそうな要素を最初から回避できるポイントがたくさんあったといえます。

また、よそ者を排除するかと思いきや、東京からわざわざ来たんだからすごいことをやるんじゃないかと逆に期待してくれたようです。街の人たちは、このまま繊維業だけ続けていたら衰退するという危機感を持っていて、ゑびすビルのプロジェクトやゑびす祭りを行うなど、どうにか街を変えたいという気持ちが強かったようで、新しいことやよそ者を歓迎してくれました。

たいへんだったのは、5月末まで展示する場所が決まらなかったこと。作家は3月にはほとんど決まっていましたが、場所が決まらないからプランが出しようがないという人もいて、逆にプランを出してきた作家にはそれに合わせて場所を探さなきゃいけないということもあり、時間と場所のせめぎ合いで苦労しました。その甲斐あって、芸文センターと同じくらいの面積を確保できました。

■特にやりがいがあったのはどの展示ですか?

担当していた中では、KOSUGE1-16の山車プロジェクトです。とくにKOSUGE1-16の山車プロジェクトは、プレイベントから2年がかりで取り組みました。
プレイベントといえば、09年4月にはじめて長者町に来て、5月に開催が決まったのが、10月に行われた「長者町プロジェクト」でした。9か所で展示を行いましたが、5月の時点で確保されていたのは繊維卸会館だけでした。
「長者町プロジェクト」は、トリエンナーレの展示場所の確保や街の人へのプレゼンという意味でも重要でした。街の人はアーティストのイメージがないので、場所を貸してくださいとお願いしてもペンキをぶちまけられるんじゃないかと不安なわけです。なのでプレイベントの会期中に土地の所有者や社長さんにアポイントをとって、個別ガイドツアーに参加していただきました。30回くらい行ったと思います。こういう感じで空間を使うというイメージを伝えたり、現代美術といってもこういうことをやりたいということを丁寧に説明していきました。

■いま長者町にどんな可能性を感じていますか?

いろんな要素が詰まっている街なので、トリエンナ―レを一過性のイベントで終わらせたくないですね。アートと街の関係性を継続して実験していくための、いいモデルケースになるのではないでしょうか。

■東海のアートシーンについて感じることは?

それぞれいろいろ文化的活動を行っている人はいますが、つながりが少ないように思います。大がかりでないイベントをやる場所がないので、フランクにいろいろなことかできる場所があるといいですね。長者町地区にはその可能性があると思います。アートアニュアル宣言をしたり、ナウィン・ラワンチャイクンの壁画やKOSUGE1-16の山車を街が引き取って管理することなり、それに併せて街で基金が設立されることになりました。

■今後の展開について教えてください

13年のトリエンナーレに向けて継続していける仕掛けを、事務局で考えていきたいです。現在もATカフェのあった場所でサポーターズクラブの「トリ勉」などのイベントが開催されていますが、あのビルをうまく活用していきたいというのが街の人の要望でもあり、事務局の希望でもあるので、イベントなどを行う拠点として残していけたらと検討しています。
また、どこかのイベントと連携して情報発信していけるシステムをつくっていけたらと思っています。トリエンナーレのことだけでなく、名古屋や愛知で行われているイベントと連携して、地域づくりの活動を全体にサポートすることでトリエンナーレにも返ってくるものがあるはずです。