アートホリックな人のいまをお届けするこのコーナー。
今回は、あいちトリエンナーレ2010アシスタント・キュレーターの吉田有里さんにお話をうかがいました。
■アートとの出会いについて教えてください
私が中学生だった1995年に、自宅から自転車で行ける距離に東京都現代美術館ができました。その時、美術館がリキテンシュタインの作品を何億円かで購入したことを知り、「学校にはクーラーがなくて暑くて勉強できないのに、そんな高い絵を買って」と怒りにかられて見に行ったんです。そうしたらジェフ・クーンズの掃除機の作品などおもしろい作品が展示されていて、それまでは絵や彫刻が美術だと思っていた私には衝撃でした。その後いろいろ調べていくうちにそれが現代美術というものだとわかり、それが勉強できる大学があることを知って、多摩美術大学の芸術学科に進みました。
大学では、アーティストや展覧会をつくっている人やその仕事に興味を持ち、ボランティアで現場に関わるように。2002年の「コマンドN」では、秋葉原の家電店に並んでいるテレビに映像作品を映す「秋葉原TV3」いう企画で、お店の方と交渉したり、チラシで宣伝したり、アーティストの制作の手伝いをしました。それがきっかけでキュレーターやコーディネーターなどアートに関わる人たちと出会い、彼らが関わるプロジェクトを手伝うようになりました。
その後は、2004年にBankART1929に手伝いに行くうちにアルバイトになり、卒業後もそこで仕事を続けました。
■在学中からまさに現場で学んでこられた吉田さんですが、大学にはアートマネジメントを学ばれたのですか?
多摩美術大学は現代美術を専門としている教授が多く、論文と展覧会・イベントの企画が芸術学科の卒業課題でした。私は建畠さんのクラスでしたが、BankARTでアルバイトを始めていたので、BankARTを会場にして、「国際展とは何か」というシンポジウムを企画しました。それは、05年の横浜トリエンナーレのディレクターが磯崎新さんから川俣正さんに交代するきっかけとなる場となりました。マネジメントというわけではありませんが、大学に実践の場は多くありました。
■Bankartではどんな仕事をされていたのですか?
Bankart自体が地域に開いて行くスペースで、まちなかでの展覧会が多く、私が担当したものにも街に出て行ってというものが多くありました。具体的には、横浜にある飲食店100店舗に作品を設置する「食と現代美術展」のプロジェクトや、空きビルを使った展覧会などです。
■「秋葉原TV」から一貫して地域系の展覧会に関わっているのですね
私は美術館の学芸員をしたことがないですが、最初から実践の場が街だったので、ごく自然に抵抗なくまちなかでの展示に関わっています。
■「あいちトリエンナーレ」にはなぜ関わることになったのですか?
BankARTを退社した時、恩師の建畠さんに声をかけていただきました。「あいちトリエンナーレ」のまちなか担当にと推してくださったのも、それまでの仕事を見ていてくださったからだと思います。
■長者町は問屋街で一般的な商店街とは異なりますが、やりにくかったことはありますか?
名古屋に来るまで街が得意だとは気づいていなくて、ごく自然にやっていました。まちなか担当として仕事をするようになり、あらためていろいろな視点で考えるようになったのですが、長者町はまちなかのアートプロジェクトへの重要な要素が重なっている奇跡的な街だと思います。まずスケールがちょうどいい。完全なシャッター街ではないし、問屋街なので集客しても店の直接的な利益にはならず、利害関係が生まれません。街の人たちは、トリエンナーレといっても最初は「何語?」という状態でしたが、前年にプレイベントをやったことで理解してもらえるようになりました。まちづくりにも熱心で、最初から応援してくれている人たちがいて、力を貸してくれたのも大きかったです。
まちなかのプロジェクトは生活している人にはたいへんなことやリスクが少なくありませんが、長者町は約2万人が働いているものの、約400人にしか住んでいません。夜はほとんど人がいないので、パーティーや夜中の作業をしても苦情がありません。ほとんどの店舗が土日休みなので土日にイベントもできます。シャッター街を使ったプロジェクトだと街自体に活気がないので何事もスピーディにいきませんが、長者町では社員の方が業務の一環として、まちへの貢献のために手伝っていただけたのでスピーディに準備が進められました。また土地と建物の所有者が同じ場合が多く、オーナーひとりの判断で場所を借りることができたりと、長者町にはまちなかのアートプロジェクトで問題になりそうな要素を最初から回避できるポイントがたくさんあったといえます。
また、よそ者を排除するかと思いきや、東京からわざわざ来たんだからすごいことをやるんじゃないかと逆に期待してくれたようです。街の人たちは、このまま繊維業だけ続けていたら衰退するという危機感を持っていて、ゑびすビルのプロジェクトやゑびす祭りを行うなど、どうにか街を変えたいという気持ちが強かったようで、新しいことやよそ者を歓迎してくれました。
たいへんだったのは、5月末まで展示する場所が決まらなかったこと。作家は3月にはほとんど決まっていましたが、場所が決まらないからプランが出しようがないという人もいて、逆にプランを出してきた作家にはそれに合わせて場所を探さなきゃいけないということもあり、時間と場所のせめぎ合いで苦労しました。その甲斐あって、芸文センターと同じくらいの面積を確保できました。
■特にやりがいがあったのはどの展示ですか?
担当していた中では、KOSUGE1-16の山車プロジェクトです。とくにKOSUGE1-16の山車プロジェクトは、プレイベントから2年がかりで取り組みました。
プレイベントといえば、09年4月にはじめて長者町に来て、5月に開催が決まったのが、10月に行われた「長者町プロジェクト」でした。9か所で展示を行いましたが、5月の時点で確保されていたのは繊維卸会館だけでした。
「長者町プロジェクト」は、トリエンナーレの展示場所の確保や街の人へのプレゼンという意味でも重要でした。街の人はアーティストのイメージがないので、場所を貸してくださいとお願いしてもペンキをぶちまけられるんじゃないかと不安なわけです。なのでプレイベントの会期中に土地の所有者や社長さんにアポイントをとって、個別ガイドツアーに参加していただきました。30回くらい行ったと思います。こういう感じで空間を使うというイメージを伝えたり、現代美術といってもこういうことをやりたいということを丁寧に説明していきました。
■いま長者町にどんな可能性を感じていますか?
いろんな要素が詰まっている街なので、トリエンナ―レを一過性のイベントで終わらせたくないですね。アートと街の関係性を継続して実験していくための、いいモデルケースになるのではないでしょうか。
■東海のアートシーンについて感じることは?
それぞれいろいろ文化的活動を行っている人はいますが、つながりが少ないように思います。大がかりでないイベントをやる場所がないので、フランクにいろいろなことかできる場所があるといいですね。長者町地区にはその可能性があると思います。アートアニュアル宣言をしたり、ナウィン・ラワンチャイクンの壁画やKOSUGE1-16の山車を街が引き取って管理することなり、それに併せて街で基金が設立されることになりました。
■今後の展開について教えてください
13年のトリエンナーレに向けて継続していける仕掛けを、事務局で考えていきたいです。現在もATカフェのあった場所でサポーターズクラブの「トリ勉」などのイベントが開催されていますが、あのビルをうまく活用していきたいというのが街の人の要望でもあり、事務局の希望でもあるので、イベントなどを行う拠点として残していけたらと検討しています。
また、どこかのイベントと連携して情報発信していけるシステムをつくっていけたらと思っています。トリエンナーレのことだけでなく、名古屋や愛知で行われているイベントと連携して、地域づくりの活動を全体にサポートすることでトリエンナーレにも返ってくるものがあるはずです。